蚕を尋ねて(後編)


 「農業生物資源研究所」についてのルポを、前2回ほど取りあげて参りましたが、今回で最終回となります。今回は日本国内の養蚕の現状に着いてお伝えしたいと思います。



外国産の絹糸


 今、私が最も気になっているのは養蚕の現状です。現在どんどんと減り続ける日本の養蚕農家、減少が甚だしい国産の生糸、かつてシルクの国だった日本は、ブラジル、インド、中国からの生糸の輸入に頼って着物を作っているのが現状です。

外国産の中には国内にはない珍しいタイプの絹糸もあります。輸入の生糸と国産の生糸で織られた反物の違いは一般の方が見ても全く分からないとは思いますが私は分かります。
 何十年も白生地を触ってきた手の指が覚えています。そして白から染めて行くときに良い生地との違いは分かります。布地の膨らみ、嵩、そして風合い等です。

インドネシア産の絹糸 クリキュラ
珍しいインドネシア産の絹糸。金の糸を吐くクリキュラ。今回の取材で初めて見る事が出来ました。




養蚕の将来


 もともと養蚕の歴史は古く、弥生時代に中国から「シルクロードの東の終着点」である日本に伝わり全国各地に広まっていきました。そして、日本の養蚕業は長い年月を掛けて発展を続け、幕末から昭和初期にかけて全盛期を迎え、海外にも良質の生糸を大量に輸出しました。
 隆盛を極めていた日本の養蚕も、洋装等など西洋文化の流入とともに衰退を続け、近年では外国産に押され、昭和50年代に入るとほとんどの養蚕農家が廃業に追い込まれました。

 今や国内の受給率が5%に落ち込んでしまった日本で、養蚕が生き残る道は細くなる一方です。養蚕に従事する人達、それらを取り巻く機織りの減少、後継者不足、着物離れがさらに追い打ちをかけて先行きが心細いばかりと実感しています。
 加えて国の助成も減っているようで各地にあった蚕糸試験場も次々と統合され、国は養蚕業には力を入れてはおりません。

 今はまだ細々でも養蚕に従事している方がいますが、やがて皆消えてしまったらどうなるのでしょうか。
  労働コストの安さ、安い繭代、外国の生糸の安さにはかなわず、よほどの付加価値を付けなければ生き残ってはいけないとすれば、各地の製糸業者は国産生糸のブランド化など、この先よほどの工夫をしなくてはならないでしょう。

 厳しい現状ではありますが、日本の養蚕業が完全になくなることは、和装の文化の根幹を失ってしまう事に他なりません。そして我が国の民族衣裳としての着物も、さらに衰退してしまうのではと危惧しております。
  規模は小さくても産業として存続し、日本の養蚕業の灯を消してしまわぬように願います。



絹の魅力


 今では着物に興味を持って下さる方と、全く興味のない方とは大きく二分されているように思えます。 一度でも着物に袖を通された方はご存知かと思いますが、着心地の良さといい、絹ほど素晴らしい繊維はありません。
 今までも絹の組織により近いとされる化学繊維を手にしたり、実験的に染めたり、身につけたりと、私も色々と試しましたが、どうしても絹の風合いに勝るものはありません。
 今回の取材では、蚕の身体に恐る恐る触りましたが、何とも言えないあの感触が指先に残り、今では可愛かったとさえ思います。蚕の生み出す天からの糸は神秘的です。


 最後に「金色姫伝説」という蚕にまつわるお話をします。

  昔、天竺(インド)にいた金色姫という姫がいました。皇后が亡くなると、後添えの継母にいじめられて姫は何度も受難を受けます。王は姫を不憫に思うと、やがて桑の木から船をつくり海上へと逃がしました。やがて、姫ははるか遠方の日本、茨城県筑波の豊浦に流れつきます。地元の漁師夫婦に助けられますが看護を経て間もなく亡くなると、ある時、姫のなきがらが棺の中でたくさんの小さな虫に化身してしまいます。
 やがて、その虫が繭を作ると筑波山の仙人が現れ繭から糸を作る事を人々に教えます。ここから日本の養蚕が始ったそうです。やがて漁師は養蚕業を営んで栄え、多くの人々を寒さから救ったそうです。なんともロマンある伝説で好きです。そして姫の受難の数が脱皮の数と言われているそうです。そして姫の御魂を祀った「蚕影山神社」が日本の絹の発祥地とされる筑波にあるそうなので、いつか訪れたいと思います。

 薄くても暖かい絹、そして涼しい絹、お蚕様万歳と言いたいレポートですが、同時に国内の養蚕の現状も考えさせられる良い機会ともなりました。
  また、絹の産地や養蚕に携わる方に会えたら、その都度ルポするつもりです。養蚕の明るい未来の兆しが感じられたら、すぐに報告していきたいと思います。
 蚕の生み出す絹織物の大切さを日本人として認識し、かつて絹の国であったことにもっと誇りを持って欲しいと切に願います。

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